Presented by B.B.C./Biwako Bass Communications

Editorial
Vol.6(02/10/07)

本当は誰がバスを放流したのか

 外来魚問題をめぐる議論には、過去も現在も多大な労力と時間が費やされている。ところが、その議論から説得力のある結論や提案が導き出されたことは、これまで一度もなかった。なぜそうなるかと言うと、議論の根拠がまったくあいまいであるか、あるいは嘘やデタラメとは言わないまでも、素人考えに近い推論に立脚しているからである。

 バスの容認を否定する側からの意見として、バスが湖や池、川のたとえ1カ所にでもいれば、それが密放流による拡散の原因になることがあげられている。だから、すべての水域からバスを完全駆除しなければならないというわけだが、その前提となっているのは、密放流は防ぎようがないという仮説だ。極端な論者は、密放流を完全に防ぐことはできないから、その動機となるバスフィッシングそのものを禁止せよと言う。ここまで極端なことを言う人物は、さすがに今年になって大手メディアから相手されなくなった。メディアも最低限の勉強はしてるようで、この人物が言ってることの論拠のあいまいさ、支離滅裂さに気が付き始めたのは、せめてもの幸いである。

 ところが、いまだにこれと同様の論理でものごとを押し進めようとする人達が少なくない。適切な範囲でバスフィッシングが可能なフィールドを残すという提案を受け入れず、一切の内水面からバスを完全駆除するという。そんなことすれば、かえって密放流が行われて、いつまでたっても状況をコントロールできようにはならないし、バスを完全駆除することなど現実的に不可能。いくらそう言っても、まったく耳を貸そうとしない。

 なぜそういうことになるかというと、本当の事実に目を向けたくないか、あるいは事実を知られたら困るような事情があって、そこから逃げるために事実は隠した上で、自分達に都合のよい範囲の中だけで仮説に仮説を積み重ねて理屈だけで結論を出そうとしているからである。反対意見に耳を貸そうとしないのは、耳を貸したとたん自分達の論理が崩れ去ってしまう、それぐらいあいまいな根拠に立っていることを自覚しているからにほかならない。

 バス排除派の一部の人達には悪意はなく、そういう流れに乗っかっていれば自分達が目的とするところの環境保全とか生態系保護が実現できると思っているのかもしれない。しかしながら、その目的が達せられるとは思えない。なぜなら、乗っかっている論理の根拠とするところがきわめてあいまいで、もっと深読みすれば、生態系や自然保護なんか本当はどうでもよくて、目的は別のところにあるかもしれないからである。環境保全や生態系保護を目的とする人達は、そういう目的のために利用されているだけかもしれない。あるいは、利用されていることを知っていて、それも計算の上で活動されているということも考えられるが、いずれにしても反対意見に耳を貸そうとしないことにかわりはないから、同じ穴のムジナである。

 間違いの始まりは、すべてバスアングラーが悪いと決め付けている点にある。バスの拡散はすべてバスアングラーの責任、ついでにブルーギルの拡散もバスアングラーの責任にしたい人達が世の中には大勢いるようだ。テレビや新聞などの論調もほぼ同じで、独自の論理展開がまったく見られない。借り物の論理を元に記事を組み立てているだけだから、問題解決に結び付くような方向性が出てくるわけがない。すべては砂上の楼閣の中の閉ざされた会議室での言いっぱなし。楼閣の土台だけでなく、会議室の壁も砂でできているから、反響さえも返ってこない。そんな状態で議論が進められているのが現状だ。

 ここでは数ある問題点の中から3点を選んで著者からの問題提起とさせていただく。まず第一の問題点として、バスの拡散はなぜ防げなかったのかということ。第二の問題点としては、バス拡散の責任はすべてバスアングラーが負うべきものなのかということ。第三は、本当は誰がバスを放流したのかということ。こういう本質的な問題を議論することなくして、外来魚問題を解決することなんかできっこないと思うので、触れられたくない、語りたくないという人も大勢いることを承知で、あえて書かせていただくことにした次第である。

 赤星鉄馬氏に始まり、日本にはたびたびバスが移入されている。その事業には、多くの場合は一部の釣り具メーカーやアングラーの団体などが関わっている。あるいは愛玩用に持ち込まれたバスが自然界に出ていったケースもあるかもしれない。これらの事実は揺るがしようがないのだが、それをもって釣り業界やバスアングラーを犯罪者呼ばわりするのは間違いである。なぜなら、当時、バスを移植するのは条例違反でも漁業調整規則違反でも何でもなかった。バスの移植が条例や漁業調整規則で禁止されたのは、バスが日本中に拡散したことが問題視されるようになってからで、多くの都道府県では90年以降のことである。だから、それ以前の放流の責任を問われた者もいなければ、その行為を具体的にとがめられたり検挙された者もいないのである。

 バスが次第にあちこちの釣り場で釣れるようになっていったのは70年台後半から80年台のことで、80年台後半頃になると在来魚に対する影響を問題視する声が次第に強くなっていった。この問題に取り組んだ人達はバスアングラーの中にもいて、琵琶湖バス会議などのフォーラムが開催されたこともあったし、雑誌などでかなり真剣な議論が闘わされたこともあった。しかしながら、密放流を条例などで禁止しようする動きが出てくるのは、すでに全国の大部分の水域にバスが広がってしまった90年代に入ってからである。

 それ以前は、日本の内水面における外来魚の影響がこれほど大問題になるとは、ごく一部の人達を除いて誰も思っていなかったというのが本当のところだろう。マナーの問題として、外来魚の放流はやめましょうというようなことを言われてはいたが、誰も本気で止めようとはしなかったのである。その間にバスが日本の広範囲の水域に広がってしまったのだが、例えば各都道府県の水産課や内水面水産試験場、研究機関の賢明なスタッフ達が本当に気付いていなかったのだろうか。著者は一部研究者が10年以上前から外来魚問題について度々発言していたことを知っているが、これらの意見がなぜ当時取り上げられなかったのだろうか。その点は大きな疑問である。

 ブルーギルが拡散したプロセスについては今さら説明するまでもないと思うが、日本中の内水面水試や研究機関が広範囲に関わっている。この事実が、バスに関する判断を誤らせたのではないかと著者は思っている。ブルーギルの影響は場所によってはバスよりも大きいのだが、そういうことは認めたくないか、あるいは本気でそんなことはないと思っている。そういう思い込みが前提にあって、バスも大した問題にはならないという方向に流されてしまった。もし大問題になる可能性があることに気付いていたとしても、それが誰の責任かということになったときに、ブルーギルのことが出てきたら自分達、あるいは自分の近くにいる人達が責任を問われて困ることになるから、バスのことも放っておくしか仕方がない。つまり、ブルーギルのことがあるから、バスのことを問題にしたくなかったのではないか。その結果、今になってバスのことが大問題になっているのだとしたら、これって何のための研究機関や研究者、誰のための行政かということになる。責任の一端でも自分達のところへ持って来られるのはかなわないから、すべてバスアングラーの責任にしておけということでは、お互いに反省も何もあったものではない。

 バスの密放流に関しては、2000年11月に富山県で摘発されたケースを除いて、これまでのところ誰も責任を問われていないし、漁業補償のようなことにもなった例もない。琵琶湖の問題にしても、あくまでリリースを禁止する、漁師が獲った外来魚を買い上げる、駆除作業に助成金を出すということであって、在来魚が獲れなくなったのを補償するということではないのである。これがなぜかというと、補償というようなことになったら、誰の責任かということになる。バスを放流した者の責任、ブルーギルを放流した者の責任、それが原因で在来魚の漁獲量がどれだけ減ったか、これらの事実関係を証明して損害を賠償する、補償金を出すという手順をたどることになるわけだが、ブルーギルを放流した責任なんか誰も取りたくない。だから補償問題にはできない。

 バスの方は、とりあえず全アングラー、全バス釣り業界に責任をかぶせておけば、具体的に誰の責任かということにはならず損害賠償なんてことにもならないから、ブルーギルの責任問題に火の粉が飛んでくることもない。外来魚問題のすべての責任がバスアングラーとバス釣り業界にあるという論理は、こういうところから出てくるのである。この相当無理のある論理を貫こうと思ったら、バスアングラーとバス釣り業界は本質的に悪者であるから、釣り場のうち1カ所でもバスが残ったら、そこからバスが持ち出されて密放流される。だから完全駆除だということに話を持って行くしかない。つまり、バスアングラー全責任論とバス完全駆除論は断ち切ることのできないセット関係なのである。

 誰がバスを放流したか。これほどシンプルな疑問でありながら、なぜか本質的な議論が行われていない問題点もほかにない。バス排除派がよく使う、バスアングラーみんなが悪いという言い方は、具体例をあげられないことからの逃げ以外の何ものでもない。あるいは、わざと論点をすりかえようとしているのかもしれない。

 誰かがバスを密放流したと言うのであれば、いつ、どこで、誰がとはっきり言うべきであり、それが証明できるなら刑事訴訟でも何でも起こして法的手段に訴えるべきである。あるいは、条例や漁業調整規則で禁止される以前の行為であっても、その事実を明らかにして道義的責任を問うようなことをした方がいいかもしれない。そうすることで将来のバスの密放流を防ぐことができるなら、やるべきである。それができないのは、やはり具体例をあげることができないからであろう。あるいは、具体的な組織や個人を相手に議論する自信がないからかもしれない。もしそうでないと言うのであれば、上記のような行動を今すぐ始めるべきだと思うのだがいかがだろうか。

 論点のすりかえをしようとするのは、具体的に誰がということになったときに、バスアングラーやバス釣り業界以外から困る者が出てくるからではないか。一例をあげると、川のバスはバスアングラーの密放流で増えたことになっているが、本当にそうなのか。琵琶湖から大量のコアユが運び出されて、アユ釣りのために各河川に放流されているのにまじってバスが広まった可能性はないのか。その危険性に対して、バスが各河川に拡散した時期にさかのぼった時点から、すでに十分な選別は行われていたのか。水産庁や滋賀県水産課から適切な時期に適切な指導は行われたのか。そういうことを問題にされたくないために、意図的にすべてバスアングラーとバス釣り業界の責任にしようとしているのではないのか。釣り場の1カ所にでもバスが残ったら、それが持ち出されて密放流されるから完全駆除しかないと言い切るのであれば、琵琶湖のコアユを放流するとバスが川に拡散する可能性があるから即刻やめるべきだとなぜ言わないのか。

 以上のようなことをしっかりと考えてみれば、バスの拡散がすべてバスアングラーとバス釣り業界の責任だというのは間違いであることがわかると思う。そのことが理解できれば、600万人に達すると言われるバスアングラーの存在を無視してのバス完全駆除論がいかに非現実的かがわかろうというもの。バスアングラーとバス釣り業界以外にも責任があることを認めるなら(あるいは責任を認めなくてもよいのだが)、外来魚問題の現実的な解決策として管理可能なバス釣り場は残すべきであり、そのための話し合いを今すぐ始めるべきである。その話し合いの前提として、認められた水域以外への密放流が行われないようにバスアングラーに協力を要請すると同時に、条例などが飾り物でなく実際に効力を発揮するように整備することが必要になる。

 あくまでバスアングラーとバス釣り業界以外の責任は認めない、完全駆除するというのであれば、いつまでたっても議論は平行線をたどるであろう。その場合、バスアングラーは信用できないと言ってるのと同じである。そんな信用できないバスアングラーが600万人もいたら、いくら駆除しても次から次へと密放流されてバスは減らないという最悪の事態にならないとも限らない。これって、バスアングラーとバス釣り業界は信用できないから完全駆除しないといけないと言っておきながら、実はバスアングラーの協力なしにはバスを完全駆除するどころか、拡散をコントロールすることすらできっこないという矛盾を抱え込んでしまうことになると思うのだが、その点、完全駆除論者はどのように説明するのだろうか。あるいは、信用するに値しない600万人が、条例などで強制すれば黙って言うことを聞くと思っているのだろうか。

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