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■14/05/20

世の中に何が一番法螺を吹くと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい

平均350ページを超える文庫本8巻に及ぶ大作、司馬遼太郎の坂の上の雲の第7巻中盤。日露戦争における奉天会戦後の日米関係について触れた中に出てくる一文。続いて次のような文章も出てくる。

「日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ」

奉天会戦は1905年3月だから今から110年近く前のこと。1世紀以上前の日本について書かれたとは思えない現代にも通じる文章である。しかも、書いたのは元新聞記者の司馬遼太郎だから、日本の新聞というメディアの本質を突いていると思わざるを得ない。

国民性についても然り。「つねに一方に片寄ることのすきな」日本人の国民性は、ネットが発達した現在において、ますます過激化する一方ではないか!!

■13/11/22

世の中に何が一番法螺を吹くと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい

井伏鱒二「川釣り」は、釣りを語るなら読んでおかないと恥ずかしい1冊。その前書きに、いきなりこう出てくる。

「私の尊敬する友人で海釣りの達人は、「十年釣りをして三行書け。」といった。もしこの金言を遵奉すれば、私は十数年前から釣りをはじめたので数行しか書けないことになる」

いきなりガツン!! 書き手と読書の真剣勝負の最初のジャブである。前書きでこう放っておいて、続く本文は釣り、釣り、釣りのグダグダ話。誰でも釣りキャリアの中に抱え込んでそうなエピソードと妄想のオンパレードだが、それが名筆家の手にかかるとこうもリアルで面白くなるかと舌を巻く。文章の味わい深さと面白さ、愉快さは、「山椒魚」や「黒い雨」の作者であることのイメージからは遠い。これもまた読み手の思い込みで、それぐらい書けるから大作家なのだろうが・・・。

「川釣り」は子供の頃に岩波新書版を読んだのが最初で、その本はいつの間にかどこかへ行ってしまって、今手元にあるのは1990年発行の岩波文庫版。その紹介がNumber Webに出ていたのを見て思い出した。(大作家の筆で味わう、スポーツ・ライティング。〜井伏鱒二・著『川釣り』〜 Number Web ブックソムリエ 13/11/22)

岩波新書版の発行は1952年。今から実に61年前である。その前書きにいきなり「十年釣りをして三行書け。」である。今と何もかわってないよね。釣り人というのは放って置いたら2年や3年かじっただけで釣りを語りたがる。たかが10年も経験したら大ベテランのつもりになって、新米相手に語る、語る。それってめちゃ恥ずかしいよね!! と60年前の本ですでに喝破しているのである。知らなかったら恥ずかしいでしょ。無知を改むるに憚ること勿れ(笑)

「釣りを語るなら読んでおかないと恥ずかしい」と最初に書いた。裏を返せば、釣技や釣果を語るだけなら読んでも読まなくても同じ。今のメディアにはそんな文章が五万とあふれてるよね。半日釣りしただけで10年分の実績のごとく書いてるような文章が・・・(泣)

(※注 「無知を改むるに憚ること勿れ」は論語の「過ちては改むるに憚ること勿れ」のもじり。って、こんなことも書いておかないと、すぐに突っ込みたがるバカが多いから面倒くさいよね)

■13/04/04

世の中に何が一番法螺を吹くと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい

iPhoneの豊平文庫で読み始めて、途中からiBookに引き継いで読み終えた夏目漱石の坊ちゃんに出てきた一節。今から100年以上前の小説に書かれた事実がメディアの本質を貫いてる気がして痛快だが、そう言いながらこの文章が世に出た翌年には朝日新聞に入社する漱石の生き様にも驚嘆を禁じ得ない。
1906年(明治39年)4月 - 「坊っちゃん」を『ホトトギス』に発表
1907年(明治40年)4月 - 一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める(Wikipediaより)

■13/02/28

バスを持ち琵琶湖の春をうたがはず

春をテーマにするからには3月1日にアップしたかったが、あまりにも春らしいいい天気になったので今日2月28日にアップすることにした。元の句は毎日jp2月22日付の近事片々に掲載された昭和の俳人、石田波郷の<バスを待ち大路の春をうたがはず>この句を見た瞬間、バスと春の二つのキーワードで頭のスイッチが釣りの方へ切りかわってしまって、本意を理解するのにしばらく時間がかかったのは、脳内検索アルゴリズムが偏向してるからか!?

■12/12/02

人間ーーそれは最も海にとつて必要のない化物だ

「釣れない時君は何を考へるか」はこのテーマのもと、釣りをしているときに頭の中を行き交う様々なことを次々と上げた佐藤惣之助のエッセイ。その中でも「人間――それは最も海にとつて必要のない化物だ」の一節は、初出が1934年、つまり今から80年近く前に釣り人が今と同じようなことを考えていたという点で特筆に値する。ほかの例をいくつか上げておく。

「樹木は『善』の象徴である。曰(いわ)く彼は何んにもしないから」
「魚は恋を知らない、痛疼感がない、然し彼は驚く、彼は怒る」
「一個の人間、一個の蟹、浪にとつては同じこと」
「海は階級だの、貨幣だのに関係のない時にのみ面白い」
「魚のホテル、釣りのかかり、釣徒の難所」

■11/12/13

私も記念に二セットほど買いこんだけれど、とても使う気になれない

釣りをテーマにした南北両アメリカ大陸縦断記の北米編「もっと遠く!」の上巻第六章、ニューヨーク州モントーク沖のブルーフィッシュ釣りの1節。ちょっと長くなるが、そのまま引用する。

「釣り師というのはその土地、土地に適応したルアーをああでもない、こうでもないと苦心、工夫し、最後には奇妙キテレツなルアーを作りだすが、この界隈のブルー釣りには”アンブレラ”というルアーがある。港の釣道具店へいくとどこでも売っている。(改行)これは骨だけの傘みたいなルアーである。中心からタコの足のように四本から六本、頑固なワイヤーの腕が放射していて、その一本ずつの先端からちょっと細いワイヤーもしくはナイロン単糸がぶらさがる。その先端にねじくった”く”の字型の緑や赤の塩ビのチューブがぶらさがる。このチューブは先端が竹槍のように斜めに切ってあり、内部にワイヤー付きの一本鈎がかくしてある。よっこいしょといってこの一個を全開して持ちあげると骨だけの傘にそっくりである。海面にひきずり、ジギングならボートから海中に沈めて上下させるわけだが、たいへんな重量になるのである。そこへ水圧がかかり、あばれ狂うゴリラがくっつくと、ちょっとやそっとではリールが巻けないというのだ。よく釣れるルアーなので、みんな買っていく。そこで私も記念に二セットほど買いこんだけれど、とても使う気になれない。私としては"ダイヤモンド・ジグ”というもっともシンプルなデザインのルアーを使って強敵に立ち向かうことにした。これは長三角形の四面を持つ、もっとも古典的なジグ(海中をひらひらと上下させて魚を誘うルアー)であって、鈎は一本鈎のごついのがぶらさがっているだけである。金、銀、赤、緑など、色は何種かある」

筆者は今から20年以上前の週刊釣りサンデー時代に、この本をアメリカへ釣りに行く直前の小西和人さん(当時社長)に貸したきりになっていたのだが、ブルー釣りに使うアンブレラのことが載っていたのはずっと覚えていた。それを今になって急にアマゾンで再購入(中古本、送料込み250円)したのは、説明するまでもなく、例の奇妙キテレツなバス用リグだかルアーだかのことがあったからで、それが本日送られて来た。最初に買ったのは文庫本初版時の1984年初めだから、今から約28年前のこと。北米編「もっと遠く!上・下」と南米編「もっと広く!上・下」の計4冊が箱に入った、今で言うボックスセット2400円なり。そのうち1冊が欠けているのは小西さんに貸したときからずっと気になっていたので、この機会に揃えなおしたという意味合いもある。

なぜ小西さんに本を貸したかというと、ニューヨークでの案内役がこの本の中で開高さんが釣りをしたときと同じ人物で、「ブルーフィッシュとかいうのを釣ることになっとるんやけど、ハットリ君どんな魚か知らんか?」とたずねられて、「この本に載ってますよ」と取材のための資料として提供した。帰ってからのみやげ話で「こんなんで釣らされたわ!!」とアンブレラを見せられて、確かおみやげに一つもらったはずなのだが、使わないまま知らない間にどこかへ行ってしまった。本も返って来なかった。アメリカで誰かに所望されたので仕方なくプレゼントしてきたとか、確かそんな話だった。そのようないきさつがあったから、アンブレラのことが強く記憶に残ったのだと思う。

開高さんと小西さんの確執はそれ以前からで、アマゾンへ釣りに行ったときも案内人が同じで、中国新疆ウイグル自治区の山奥の湖では一緒になったこともある(このときは筆者も一緒だった)。前人未踏の同じ場所を狙っていて、どちらが先に行くかのレースで僅差を競うことがしばしばであった。そんな行く先々で開高さんの釣り師ぶりをいろんな人から聞かされ、本物も知ってる小西さんによる開高さんの評価は、小西さんが本物の釣りジャーナリストであり、たたき上げの釣り師であるがゆえに、ただの酔っぱらい、まったくのゼロで、釣り師としては相手にしていなかった。とにかく絶対に許せないのは、テレビを中心とする様々な企画が絡むがゆえのヤラセで、この点に関してはゼロどころか大マイナス評価であった。

開高さんを尊敬すると自称する釣り師(たいていは開高さんとちょぼちょぼレベルの中身のないええかっこしー!!)にこんな話をすると、まるで自分のことを批判されてるかのように露骨に嫌がられることが多い。だが、事実は事実なので、嘘は言えない。そんな開高さんをはっきりと嫌っていて、そのことを公言してはばからないもう1人の有名釣り師がいる。この人もナマ開高さんを知っている。本業は琵琶湖のバスフィッシングガイドで、今日はガイド休みで磯釣りに行ってる。それほどの正真正銘、本物の釣り師であり、バスはおろかルアーフィッシングの第一人者とも言うべき人物が、アンブレラでバスを釣ることに否定的なのは、筆者としては何10年もかかった複雑で壮大なストーリーをここでまたもつれさせるかと、めちゃくちゃ面白くて仕方がないのである。

■11/10/06

Stay Hungry. Stay Foolish.

10月5日になくなった米アップル創業者で会長のスティーブ・ジョブズは、2005年にスタンフォード大学の卒業式に来賓として招かれ、卒業生に贈るスピーチの最後にこの言葉「Stay Hungry. Stay Foolish.」を引用した。原文は彼が強い影響を受けたと語るホール・アース・カタログ最終号(Whole Earth Epilog)の背表紙に掲載されたメッセージ。日本語訳は必要ないよね!!(スピーチの詳細はこちら/YouTubeムービーはこちら

今、このテキストは、ほとんどジョブズの発明品と言っても間違いではないと筆者は思っているアップルのマッキントッシュコンピュータ(Mac Book Pro)を使って書いている。近くには別のMac(iMac)があり、5日午前2時からのプレスカンファレンスで発表されたiPhone4Sのムービーを再生しながら、手元のiPhone3GSでTwitterをチェックしながら……。Macとは1994年に大阪日本橋の阪神商会で購入したQuadra650/System7以来の付き合いになる。

各メディアが伝える訃報で面白いのは、本当に故人のことを語るべき人と、地位か立場かたまたま選ばれただけなのか大して関係なさそうな人と、メッセージが玉石混淆入りまじってること。何でもメッセージ出したらええっちゅうもんちゃうで!!

I send email to rememberingsteve@apple.com.
Thank you Mr, Jobs.
I talked about you in my web site.
But, it's Japanese only.
Sorry.
http://www.biwako.org/kotoba/kotoba11.htm

■11/04/30

忘却と無関心が支配する「楽園」

「日本人は忘れつつあるが、その島はかつて日本の領土だった」という書き出しで始まる2007年刊の岩波新書「グアムと日本人」。その中で著者、山口誠は、固有の歴史や文化の喪失と同時進行で観光化が進んだ南の島の過去から現在をコマーシャリズムとは一線を引いた視点で描き出す。同じ南の島でも、ハワイについては同様の視点から書かれた著作がかなりの数あるのにくらべて、グアムについては見たことがなかった。探しても見付かるのは観光ガイドの類ばかりであった。この点については著者もあとがきで本書執筆の動機の一つとして上げている。

この文章を書いてる現在、琵琶湖はゴールデンウィークを迎え、日本一、いや世界一のバスフィッシングの「楽園」さながらである。忘却と無関心が支配しているかどうかは、バスアングラーレベルではぎりぎりの分岐点だと思うが、「駆除」の言葉を使わない自称・釣り大会(当初使わないはずだった「外来魚」の言葉は復活したらしい)なんてのは、忘却と無関心の典型じゃないのか!! かくして琵琶湖は、忘却と無関心が支配する「釣り業者の楽園」と化していく……のだろうか!?

※注 本サイトでは、普通の釣りと駆除釣りはやってることの外見は似ていても目的や精神はまったく異なるという考えから、用語としての「釣り大会」と「駆除大会」を厳密に使い分けている。駆除を目的とするものは、すべて駆除大会と表記し、釣り大会とはしないのが原則。ということは、「○○釣り大会という名称の駆除大会」もあり得るわけだが、駆除を目的とする大会はそのことをアピールしたいから、駆除という言葉を大会名称に使うのが普通でわかりやすかった。そこに忽然と浮かび上がってきたのが、本稿に登場した巧妙に言いかえを図ろうとしている某釣り大会。この大会については、その点で混乱のないように「自称」の語を冠して通常の釣り大会とは区別しいる。

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